過干渉型の親持ちACの私が学んだ甘えと依存の違い
カウンセリングに駆け込んだ2月、私はカウンセラーさんから、
「ちょうちょさん、甘えと依存は別物なんですよ」と教わった。
今日の学び①
— ちょうちょ (@papy_prism) 2020年3月8日
甘えと依存は似ている言葉だが別のことを言っている。
依存は、自分の問題を他人にも背負わせること。だから依存された側は嫌な気分になる。
甘えは良いコミュニケーション。お互いがいい気分になる時ように「頼る」こと。
自分の行動を、依存かな?甘えかな?と確認していきたいな。
正直偉そうなことをTwitterに書いているがあまり理解できていなかった。
私はどんなに仲のいい友人にも、心からの悩みやマイナスな気持ちを話すのがとても苦手だ。
母からずっと愚痴のゴミ箱にされてきた。
もうお願いだからその話はしないで。その話をして私に共感を求めないでと何度お願いしても聞き入れてもらえなかった。
でも、親子だから離れられない。だから聞くしかないだけであって、私は私の友人から同じことをされたらそっと距離を置くだろう。
私は友人にも知人にも自分の心の奥底の話をするのがとても怖くてできなかった。
母から私への行為は「依存」だ。
あなたにはわからないかもしれないけど、と
前置きをして、同じ気持ちになることを求めながら、過去のつらい話をする。
若い頃母が自分の両親に、少ない収入から仕送りをしていた話。
それなのに母の弟は何不自由なく生活していた不満。
そして、私がお腹に宿った時に父が慣れない海外生活で悩む母を守ってくれなかった話。
母の心の傷は尽きることない。
私には母を癒すことはできない。
でも母は無意識ではあるだろうけれど、私が母を癒すことを求めてきた。
「共感してほしい」は、「一緒に背負ってほしい」だった。
そうやって育った私は、
「人に悩みを打ち明けること」は
「相手に自分の問題を一緒に背負わせること」
だと思うようになったのだろう。
そんな私が周りに「甘える」ことを覚えたのは、私の周りにいる友人や、恋人や、職場の人のおかげだった。
離婚を経験して、母親と連絡を絶って、私は苦しくて仕方なかった。
死にたいとか、絶望感とか、自責や後悔でいっぱいになって身動きが取れなくなった。
そんな私に、周りの人は、ずっと
「つらい時は頼っていいんだよ」
「私に話してよ」
「1人で抱えようとしないで」
と、ずっとメッセージをいろんな形で送ってくれていた。
力を貸してほしいと言えるようになるまでには、かなり時間がかかったが、私は最近以下の3つができた。
①安心して自分の悩みを打ち明けることができる場を手に入れるために、ACのグループをはじめとして、いろんな自助グループに繋がった。
個人的にはTwitterも自助グループのうちの1つみたいなもので、近い悩みを持つ人と繋がって、自分が否定されない安全地帯を手に入れた。
②人生で1番信頼できる友人達に、死にたくなることがあることとその原因を打ち明けた。その上で、1人でどうしようもない時に、「死にたい」って言わせてほしい。そして、なんでもいいから「生きてほしい」と言う意味の反応をしてほしいとお願いした。
私の「死にたい」気持ちは、誰かに(できれば本当は母に)無条件に存在を肯定してほしいと言う気持ちなんだと思うのだ。
母から望むものが得られない以上、信頼を置いている友人からの肯定は何よりも「私が存在してていい」と思える方法だと判断した。
幸い彼女達はそんな私のお願いを受け入れてくれた。そのことだけですごく抱えていたものが軽くなる気持ちだった。
③職場の先輩に、仕事がうまくいっていないことを打ち明けた。そして、先輩だったらどんな対処をするか、先輩には私はどう見えているかを聞いた。
きっと今までの自分だったら、先輩からのマイナスの気持ちが怖くてできなかった。
人にわからないことをちょっと聞くことすらしんどかった。
でも、自分1人でできないことを「頼られる」のは頼られた側も嬉しいものなのだ。
それを教えてくれたのは1人の後輩だった。
彼女と別れたばっかりの後輩から「同じグループだった先輩全員に送ってるんですが、彼女にフラれました。つらすぎます。」とある夜LINEが届いた。
彼は「甘え上手」だ。
ちゃんと信頼関係が築けている人とそうでない人を見分けるのが上手く、その上で適切に人を頼ったり甘えたりできる。
実際、私は信頼されてるんだなと嬉しくなった。
「依存」は、された側は苦しい。
「甘え」は、された側は嬉しく、より関係が深まる。
その違いをやっと少し理解できたような気がする。
それでもまだまだ、気をつけないと私は他人に依存すると思う。
でも、自分の問題を自分で持ったまま、信頼できる人の力を借りることはできると思うのだ。
そんな成功体験を積み重ねて、人に甘えられる生きやすい人になりたいなと思う、今日この頃である。